はこにわサロンまで続く道【その4】〜英語は道具!
東京・青山の心理カウンセリングルーム「はこにわサロン東京」の吉田(臨床心理士・公認心理師)です。
前回は、英語が好きになったいきさつについて書きました。
すっかり「英語は得意」な気持ちになっていたわたし。
大学は、もちろん英文科!と思っていました。
けれども、ある日、ICU出身の才媛Kさんから衝撃の助言をいただきます。
「みちこさん、英語は道具よ」
それは、当時のわたしにとって、次元の違う世界を見せられたような強烈なインパクトのある言葉でした。
当時のわたしの理解はこれ↓↓↓
つまり、英語を勉強するんじゃなくて、英語で自分の興味のあることを勉強すればいいんだな。
これは、なかなか難しくて、この助言をいただいた17歳から25歳くらいまで悩むことになるのです。
専修大学で英文学を学ぶ
Kさんの受け売りで、カッコつけていたけれども、結局は無難な英文科へ入学することになりました。
軽く失望しながら上京しましたが、大学生活も下宿生活も、とても楽しかったのです。
ふる〜〜い長屋のような下宿で、壁にヤモリが出ました(川崎ですけど、汗)。
毎晩、酒盛りをしたり、友だちの手料理で、苦手だった煮魚が大好きになりました。
とにかく外国に行ってみたい一心でアルバイトをしましたよ。
英文タイピスト(なんて仕事があったんですよ)や家庭教師、アイスクリームの店頭販売に川崎市長選挙のウグイス嬢、などなど。
はじめての外国
そうして、2年生の夏休み(1986年)に2ヶ月間、渡米することになりました。
もうね、生まれて初めてのことで、パスポートとビザと航空券の区別もつかない。
(この3点は大切だから常にセットで持ち、3点セットで係員に差し出す、でなんとかクリア。)
1986年というのは、為替レートがぐっと円高にシフトし始めた年なんです。
’85年には1ドル=239円だったものが、’86年には169円くらいになっているのですね。
でも、まだ、個人で海外に出かけるのは珍しかったのです。
成田空港まで、友だち・家族合わせて50人くらいが見送りにきてくれました。
旅のお供は『地球の歩き方』
まだ、本屋さんには売っていなくて、新宿の事務所?まで買いにいきました。
アメリカでは、シカゴのオヘア空港で迷子と間違われたりするハプニングもありましたが、なんとか東海岸に到着。4週間の語学研修を受けました。
このクラス分けのときに、隣に座っていたのがサウジアラビアから来た男の子。
40代のマフィアにしか見えませんでしたが、同い年!
そして、実力テストのときに、あからさまにカンニングをしてくるのですよ。
わたしはぷりぷりしていたのですが、彼のほうは「答えを見せてくれてありがとう!」とまるで悪びれない。なんと英語を勉強しはじめてほんの数週間だと言うのです。語学のセンスが違います。
彼の英語は強烈ななまりがあって、「エスタルデ、エスタルデ」というので、コーランを唱えているのかと思ったら「イエスタディ」のことでびっくりしたり。
語学研修のあとは、ボストン、ニューヨーク、ワシントンD.C.とお決まりの大都市を周り、さいごがロスアンゼルス。
ここの安モーテルで、楽しかった2ヶ月間を振り返って、急に猛烈な焦りと孤独に襲われました。
「わたしは、まだ、英語で何をしたいのかわからない!」
ふりだしに戻ったような気持ちで、日本に帰国しました。
交換留学できることになった!
帰国してうつうつと過ごしていたところに、なんと、専修大学が交換留学制度を始めるという知らせ!
しかも、まだ制度の知名度も低く、応募すればほぼ誰でもいけるというおおらかさ。
「今度こそ、英語で何をしたいのか見つけられる!」と期待してペンシルバニア州のカレッジに留学しました。
英語に苦労したり、スウィーツの食べ過ぎで10キロ太ったり(汗)しながら、映画や女性文学の授業をとったり、体育に空手を選んでみたりしました。
そうして、ようやく見つけたのが「マイノリティー(弱者)の声を取材して記事にする記者になりたい」という夢でした。
帰国、そして就活
ジャーナリズムに興味がある、と思って帰国したのが、大学4年生の5月のこと。
30年前でもさすがに就職活動はもう始まっています。
今更ながらマスコミ勉強会に参加してみたりしますが、まったくついていけない。
「英語でやりたいことが見つかったから、もう一度アメリカで勉強したい」と思いましたが、もちろんそんな甘い留学が許されるわけもない。
どうしてよいのかわからないまま、就職先も見つからぬまま、卒業式を迎えました。
あぁ〜、悩んでいるあいだに大学生活の4年間が終わってしまった!